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Interviste

Luxury and Manners

ぼくは長い間、ローカリゼーション戦略をテーマにして活動してきました。対象とする市場文化に商品をどう適応させるか、あるいは、あえて適応させないかです。その際、いつも注意してきた点があります。 それは「ローカリゼーションをマナーの話にしない」ということです。 異文化理解の分野でよく発言を求められる人は、言葉や文化人類学の出身であるケースが多いです。特に言葉を専門的される方の場合、往々にして「こう言ってはいけない」「ああいう言い方はよくない」という“エチケット”的な匂いがあります。 一方、ぼくは、何かを前進させることを第一義におき、文化はダイナミックに扱いたいと思っているので、文化を静的に捉える印象があるエチケットには違和感を覚えることがあります。 環境専門の弁護士がラグジュアリーを語るワケ 今回はラグジュアリーとマナーを結びつける話をするにあたり、そうした静的なエチケットやマナーではない面を伝えるべく、ミラノを拠点とする弁護士、エリザベッタ・チチゴイ氏の言葉を紹介します。 エリザベッタ・チチゴイ氏 (c)Enrico Labriola 彼女は「Who’s Who Legal」2021年版でイタリアの環境問題のトップ14人の弁護士の1人に選ばれています。環境問題を専門にする彼女が、ラグジュアリーを語るにふさわしいのは、イタリアの特性が背景にあります。 「イタリアで環境に関する最初の法律ができたのは1920年代です。ドイツやフランスが同様の法律を定めたのは、もっとずっと後のこと。イタリアのその法律の特徴は、自然環境だけでなく文化遺産や景観美もカバーしていたことです」 それからおよそ半世紀後、1969年には文化遺産保護のための軍隊警察司令部が設置されました。文化遺産の保護監視や文化財の国際的違法取引を阻止するのが目的ですが、これが2016年にUNESCOに設置された同様のシステム構想の発端になっています。 ラグジュアリーが文化遺産ととても縁が深いのは、言うまでもないでしょう。長い時間のなかで敬意を受けてきたモノやコトがラグジュアリーの対象になりやすいからです。環境と文化に詳しく、その両方を視野に入れて経験を積み重ねているチチゴイ氏が「時の人」なのは、このためです。 彼女はハイエンド企業をクライアントに抱え、サスティナビリティについてアドバイスをしていますが、そのスタンスは、脱炭素への急激な流れで環境とラグジュアリーが結びついたのではなく、彼女の視野にある環境が自ずとラグジュアリーと重なっているのです。 今年、そのラグジュアリーの市場は、パンデミック以前のレベルに回復しました。ベイン&カンパニーの数字では、アパレルや宝飾など個人最終消費財のラグジュアリー市場規模はおよそ30兆円。この分野の70%ほどが欧州企業関連ですが、本連載でも書いているように、欧州以外にもラグジュアリービジネスが生まれつつあり、それらは世界各地にある文化のエッセンスを表現しようとしています。 スペックかストーリーか議論の行方 では、チチゴイ氏のいうラグジュアリーとは何でしょうか。ここでマナーの話が出てきます。 「熟練した職人によって作られた凝った製品がラグジュアリーといわれる傾向にあります。しかし、それは単にハイスペックのモノに過ぎません。実際は、“そのモノをどう扱うか”によってラグジュアリーであるかどうかが決まるのです」 つまり、文化遺産も含む環境とは、モノだけでなく、モノの扱い方に関する習慣や知恵も含み、それこそがラグジュアリーか線引きになるということです。「モノの扱い方」は、マナーと見ることができるでしょう。 しかし一方で、この数十年間、高品質のハイスペックのモノを誰でも持てる、何らかの地位や資格が不要であることでラグジュアリーの大衆化が進んできました。欧州のマナーを知らなくても、欧州外の地域の人が欧州のハイブランドの商品をもって幸せになれた。これはこれで良い方向だったのです。 ところが、今度はスペック競争にはまってしまいました。モノであろうとコトであろうと、高品質と高価格あるいは希少性といった項目チェックでクリアできれば「ラグジュアリー証書」が添付されるような世界観がのしてきたわけです。 だからこそ、「ストーリーテリングが重要だ」「いや、ストーリーテリングには飽きがくる。やはりモノの良さが勝負になる」との議論が盛んになった面があると推察します。 その結果、舞い戻って、マナーについて見ないフリをし続けられない状況になってきた。マナーというと、エリートの品格、ハイソサエティの嗜みなどを連想しやすく、もしかしたら敷居をあげるかもしれなくても、です。 中野さん、ラグジュアリー領域での決して古臭くなく、しかも窮屈ではないマナーのあり方をどう論じたら良いと思いますか? ぼくも、このテーマは考え始めたばかりです。幅広い視点からご意見いただけると嬉しいです。 マナーの話がまさかこのようにラグジュアリー領域とつながるとは。 「熟練職人による高品質の製品は、単にハイスペックのモノ。そのモノをどう扱うかによってラグジュアリーかどうかが決まる」。「文化遺産とはモノの扱い方に関する習慣や知恵を含む」 この指摘には、はっとさせられました。文化やコミュニティを創るビジネスとしてのラグジュアリーを考えるならば、やはり扱い方に関する知恵やマナーは避けて通れない議題にならざるをえません。 英国紳士の世界の「究極の定義」 イギリスの紳士文化を研究してきた視点から例を挙げるならば、「紳士がもつべき最高品質のモノ」というのは、その独特の取り扱い方のマナーとセットになっているゆえに、ラグジュアリーとしての地位が守られてきました。それを扱えることが、紳士コミュニティを形成する重要な要素にもなっていました。 たとえばシルバーウェアは、そもそもそれを常時、磨いてくれる執事またはそれに代わる人の存在が不可欠です。もちろん、自分で磨いてもよいのですが、多少の知識および、かなりの時間と労力が必要です。 いわゆる紳士にふさわしい服装というのも、ただ最高品質のアイテムをサヴィルロウやジャーミンストリートで買えばいいというわけではありません。時間、場所、状況においてどのアイテムを選び、どんな小物を合わせ、どのように着るのか。細部に至るまで煩瑣な服装の「ルール」なるものを、マナーとして身に着けておかねばなりません。 それをきちんと着こなしたとして、オペラや競馬鑑賞における振る舞い方、食事の際のメニューの選び方や食べ方のマナー、話し方や言葉の選び方、贈り物や返礼のマナー、チップの渡し方、はては女性の扱い方のマナーにいたるまで、紳士文化には常にマナーがまとわりついていました。「マナーがエリートの品格とダイレクトにつながる」世界ですね。 このようなマナーは、同じ階級の人たちが集まる学校や閉鎖的な紳士クラブなどで時間をかけて醸成されていくもので、決して「正しく」成文化されてはきませんでした。その文化の一員になりたい部外者向けのハウツー本は大量に出回ってきましたが、部外者がその本に書かれたマナーを完璧に学んですべて条件を満たしたとして、決して「本物の紳士」と認められるわけではなかったのです。 「ジェントルマンの条件をすべて満たす男は、ジェントルマンではない」という究極の定義がここに生まれます。 紳士文化のマナーは一種、部外者排除のための壁でもあり、逆にいえば、このようにして英国紳士世界の価値は守られてきたのでした。 部外者もまた、このような特権的排他的な価値をこそ称賛するところがあり、「こんな自分を認めるならば、そんなクラブには入りたくない」という屈折した心理をもっていっそう、紳士文化の世界に対する憧憬を強めてきたところがあります。 多文化共生社会が進み、階級の壁が低くなっていく現代において、かつて特権性を保っていた紳士文化はすっかり幻想になり果てています。とはいえ、実態はなくなろうとも、その世界の幻想だけは形をゆるやかに変えながら、現代でも残っています。 成文化が「静止」を生む? 紳士文化の幻想を基盤にしているからこそ、英国紳士用品が支持されているという事実を踏まえて、関係者はマーケティングをおこなっています。紳士世界の反逆者をとりこむことで、自らの文化遺産の力を強化している節さえあります。 たとえばジェームズ・ボンドは、紳士世界のマナーという点からいえば掟破りばかりしているひどい反逆者です。彼は丁寧に扱うべき高級車をがんがん壊し、お約束の紐靴は履かずスリッポン、女性も大切に扱うふりをして、敵の弾が来たらすかさず彼女を楯にして犠牲にしてしまう(ショーン・コネリー時代)。 ショーン・コネリーがボンドを務めた『007 サンダーボール作戦』(Getty Images)…

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環境問題とラグジュアリーに精通 エリザベッタに聞く「マナーやエチケットを語る意味」~女子編

サステナビリティという言葉が世界中を駆け巡っている。地球の危機だと環境問題を起点に使われることが多い。しかしながら、どこも同じ動機とニュアンスでサステナビリティを語っているわけでもない。 例えば、スカンジナビア諸国では環境が第一の動機になるが、イタリアでは景観美を長く愛でたい、あるいは美味しい農産物を食べたいとの動機がもっと前面にでてくる。 「イタリアで環境に関する最初の法律は1920年代です。ドイツやフランスが同様の法律を定めたのは、もっとずっと後です。そしてイタリアのその法律の特徴は、自然環境だけでなく文化遺産や景観美もカバーしていたことです」。 こう話してくれるのは弁護士のエリザベッタ・チチゴイだ。環境問題のエキスパートである(Who’s Who Legal 2021年版でもイタリアの環境問題のトップ14人の弁護士の1人に選ばれている)。 1985年の地方の田園風景の保護も含めた景観法が大きな分岐点であったと思っていたが、もっと時間を遡っていかないといけないとぼくは気づいた。100年前のイタリアが文化遺産や景観美を何としても守り抜く理由とは何だったのか、と。 エリザベッタにインタビューしてみたいとぼくが思ったのも、環境問題に関わりながらラグジュアリーもカバーしている点に興味をもったのだ。この2つを繋ぐ要素があるとすれば文化遺産である。  彼女はミラノ大学法学部を卒業したのち、ボローニャ大学の文化遺産に関する修士課程も終えている。 企業のディレクターを務めていた父親は1970年代から中国に出張していたビジネスパーソンで「できるだけ旅をするように」と子どもたちに教えた。旅は頭の体操になり、もちろん外国語を学べる機会でもある。そして多くの言語を知れば知るほど、それだけサバイバル能力は高まる。 というのも、エリザベッタ自身はミラノで生まれ育ったが、両親はスロヴェニアと国境を接するゴリッツィアとトリエステの出身だ。祖父母の世代だとイタリア語だけでなくドイツ語やスロヴェニア語も話す。カトリック、ユダヤ教、ギリシャ正教とそれぞれの宗教と文化の影響を強く受けた地域で、トリエステは長年に渡り重要な港であり続けている。 「両親とも異文化に対して敏感だった」とエリザベッタは話す。 エリザベッタは高校時代、毎夏、英国のロンドンに滞在し英語とその文化を学んだ。アフタヌーンティーや劇場でのコンサートの場での振る舞いの文化コードの所在を理解するようになったのである。これが何十年かを経た現在、大学でビジネスエチケットを講義することに繋がっている。 実のところ、ぼくはエチケットやマナーに関する教育について半信半疑のところがある。必要なアイテムであると認めながらも、往々にしてそれらが「この文化での振る舞いはこうあらねばならない」という静的文化理解に留まる可能性が高いからだ。  しかし、エリザベッタのラグジュアリーに関する意見を聞いて、ぼくも気がついたことがある。 「クラフトマンシップによって作られた凝った製品がラグジュアリーといわれる傾向にありますが、それは単に職人の手によるハイスペックのモノに過ぎません。実際は、そのモノをどう扱うかによってラグジュアリーであるかどうかが決まるのです」 彼女のこの言葉を聞いて、ぼくは大きく頷いた。この視点のアプローチからすると、文化的コードに基づいたマナーが果たす意義が明白である。  ラグジュアリーには2つの指標があり、それは経済と文化だ。前者は排他性や希少性から経済的な価値を生み、後者は人とモノや体験との関係を指す。この後者においてそれなりの知識や素養が求められる。後者のない前者は単に高価な商材に過ぎない。だからマナーやエチケットを語る意味がある、とエリザベッタは強調するのである。 つまり動的文化観に基づいているのだ。「あれしてはだめ、これしてはだめ」という世界観ではない。 ところで「動く」ついでにいえば、彼女は小さな頃から身体を動かす大切さを教えられてきた。 クラシックバレーからフェンシング、スキーから水上スキー、テニスからピラテスと多くの身体の動かし方を覚えてきた。スポーツを通じて身体の健康が保たれるだけでなく、それによって頭の働きも活発になる。 クラシックバレーからフェンシング、スキーから水上スキー、テニスからピラテスと多くの身体の動かし方を覚えてきた。スポーツを通じて身体の健康が保たれるだけでなく、それによって頭の働きも活発になる。 そういえば、彼女の好きなアート作品のジャンルはキネティックアートである。動く作品、あるいは動くようにみえる作品である。アレキサンダー・カルダー(1898-1976)、ジャン・ティンゲリー(1925-1991)、ヘスス・ラファエル・ソト(1923-2005)などのアーティストに代表される作品だ。 エリザベッタが環境問題を専門とする弁護士である背景が、こうした話を聞いてよりよくみえてきた気がする。環境問題は一瞬の現実を切り取った状況を扱うのではない。ダイナミックなものだ。彼女のすべてへの関心にとって「動く」がキーワードなのかもしれない。 これはぼくのこじつけ的解釈だろうか? Interview by Hiroyuki Anzai for Sankeibiz Japan http://www.sankeibiz.jp/workstyle/news/210714/wsa2107140600001-n1.htm

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