サステナビリティという言葉が世界中を駆け巡っている。地球の危機だと環境問題を起点に使われることが多い。しかしながら、どこも同じ動機とニュアンスでサステナビリティを語っているわけでもない。
例えば、スカンジナビア諸国では環境が第一の動機になるが、イタリアでは景観美を長く愛でたい、あるいは美味しい農産物を食べたいとの動機がもっと前面にでてくる。
「イタリアで環境に関する最初の法律は1920年代です。ドイツやフランスが同様の法律を定めたのは、もっとずっと後です。そしてイタリアのその法律の特徴は、自然環境だけでなく文化遺産や景観美もカバーしていたことです」。
こう話してくれるのは弁護士のエリザベッタ・チチゴイだ。環境問題のエキスパートである(Who’s Who Legal 2021年版でもイタリアの環境問題のトップ14人の弁護士の1人に選ばれている)。
1985年の地方の田園風景の保護も含めた景観法が大きな分岐点であったと思っていたが、もっと時間を遡っていかないといけないとぼくは気づいた。100年前のイタリアが文化遺産や景観美を何としても守り抜く理由とは何だったのか、と。
エリザベッタにインタビューしてみたいとぼくが思ったのも、環境問題に関わりながらラグジュアリーもカバーしている点に興味をもったのだ。この2つを繋ぐ要素があるとすれば文化遺産である。
企業のディレクターを務めていた父親は1970年代から中国に出張していたビジネスパーソンで「できるだけ旅をするように」と子どもたちに教えた。旅は頭の体操になり、もちろん外国語を学べる機会でもある。そして多くの言語を知れば知るほど、それだけサバイバル能力は高まる。
というのも、エリザベッタ自身はミラノで生まれ育ったが、両親はスロヴェニアと国境を接するゴリッツィアとトリエステの出身だ。祖父母の世代だとイタリア語だけでなくドイツ語やスロヴェニア語も話す。カトリック、ユダヤ教、ギリシャ正教とそれぞれの宗教と文化の影響を強く受けた地域で、トリエステは長年に渡り重要な港であり続けている。
「両親とも異文化に対して敏感だった」とエリザベッタは話す。
エリザベッタは高校時代、毎夏、英国のロンドンに滞在し英語とその文化を学んだ。アフタヌーンティーや劇場でのコンサートの場での振る舞いの文化コードの所在を理解するようになったのである。これが何十年かを経た現在、大学でビジネスエチケットを講義することに繋がっている。
実のところ、ぼくはエチケットやマナーに関する教育について半信半疑のところがある。必要なアイテムであると認めながらも、往々にしてそれらが「この文化での振る舞いはこうあらねばならない」という静的文化理解に留まる可能性が高いからだ。
ラグジュアリーには2つの指標があり、それは経済と文化だ。前者は排他性や希少性から経済的な価値を生み、後者は人とモノや体験との関係を指す。この後者においてそれなりの知識や素養が求められる。後者のない前者は単に高価な商材に過ぎない。だからマナーやエチケットを語る意味がある、とエリザベッタは強調するのである。
つまり動的文化観に基づいているのだ。「あれしてはだめ、これしてはだめ」という世界観ではない。
ところで「動く」ついでにいえば、彼女は小さな頃から身体を動かす大切さを教えられてきた。
クラシックバレーからフェンシング、スキーから水上スキー、テニスからピラテスと多くの身体の動かし方を覚えてきた。スポーツを通じて身体の健康が保たれるだけでなく、それによって頭の働きも活発になる。
クラシックバレーからフェンシング、スキーから水上スキー、テニスからピラテスと多くの身体の動かし方を覚えてきた。スポーツを通じて身体の健康が保たれるだけでなく、それによって頭の働きも活発になる。
そういえば、彼女の好きなアート作品のジャンルはキネティックアートである。動く作品、あるいは動くようにみえる作品である。アレキサンダー・カルダー(1898-1976)、ジャン・ティンゲリー(1925-1991)、ヘスス・ラファエル・ソト(1923-2005)などのアーティストに代表される作品だ。
エリザベッタが環境問題を専門とする弁護士である背景が、こうした話を聞いてよりよくみえてきた気がする。環境問題は一瞬の現実を切り取った状況を扱うのではない。ダイナミックなものだ。彼女のすべてへの関心にとって「動く」がキーワードなのかもしれない。
これはぼくのこじつけ的解釈だろうか?
Interview by Hiroyuki Anzai for Sankeibiz Japan
http://www.sankeibiz.jp/workstyle/news/210714/wsa2107140600001-n1.htm